供養祈願
祈願とは読んで字のごとく「神仏に祈る」ということです。では、「祈る」とはどういうことなのでしょうか。
「いのり」の「い」には「斎」、神聖の意があるといいます。「斎」は精進潔斎(しょうじんけっさい)の「斎」でもあります。 「のり」は告る(のる)、宣るの意があるといいます。神や天皇が神意、聖意を表明するという意もあります。 つまり、「祈る」とは、神仏や神聖なものに向かい、心身を清浄に保ち、自分の何かを賭し(とし)、 罪を懺悔(つみをさんげ)してはっきりと表明することであります。これが「祈る」です。
では、「願う」とは何か。願望を願う事であり、特に神仏に望みごとを祈る事だといいます。 つまり、「祈願」、祈り願う事とは、神仏に自分の望みや希望を自分の心身を清浄にして、また何かを賭してはっきりと表明することということになるのです。 そこには、人間の持つ不浄をすべて清め、罪を懺悔し、自分のすべてを預けて、はっきりと宣告する事が必要であります。
「大欲は無欲に似たり」という言葉があります。「求める」心の根源には必ず「欲」が存在します。 大きな欲があればあるほど、結果 として何も得られず無欲の状態と同じだということをいっているのです。 「得られる」ことと、「恵まれること」は一見すると同じようなことに感じますが、別 の意味においては天と地の開きがあります。 天国の食堂と地獄の食堂という話があります。ある欲張りな男が天国と地獄を見に出かけました。 はじめに地獄を訪れました。見ると、たくさんの亡者が地獄の中でうごめいていて、聞きしに勝る阿鼻叫喚(あびきょうかん)の世界でした。 ふとみると、地獄の食堂が目に入りました。中に入ってよく見ると長方形の大きなテーブルの上には信じられないようなごちそうが山のようにあるではありませんか。 男が「地獄でもあんなごちそうが食べられるようになるならそう悪くないな」と驚いていると、たまたま食事の時間で、ぞろぞろと亡者たちが食堂の中に入ってきました。 しかし、みんなガリガリに痩せ細って、眼はうつろでどうみても喜んでいるようには見えませんでした。 男が不思議に思っていると、そばにいる鬼が2メートルはあろうかと思うような長い鉄の箸を大きな七輪のような物の上において、 下から火をつけていました。長い鉄の箸は見るまに、中ほどのところが真っ赤に焼けてきました。亡者たちはその箸を渡されると、 やっと持つことのできる端のほうを手で持って、テーブルのごちそうを食べようとしました。 しかしそんな長い箸では食べ物はつかんでも口に運ぶことはできません。また、中ほどは熱くて持つこともできないのでしかたなく、 箸でつまんで上に放り投げたりして落ちてくるごちそうを食べているのでした。しかし、そんなことでは口に入るのはほんのわずかで、 亡者たちはほとんど何も食べる事ができずにまた鬼たちに追いやられて食堂を出て行きました。 その光景を見た男は、目の前にたくさんのごちそうがあるのにそれを食べる事もできない。地獄とは本当に恐ろしいところだと震え上がりました。
これが天国の食堂と地獄の食堂の話です。「得られる」とは、その前提として、「求める」ことがあり、 そのもとはあくまで自分の「欲心」です。「恵まれる」ことはその前提として自己から他へ「恵んだ」かということであり、また恵まれる資格があるかどうかということです。 他が評価することで成り立っている世界であるのです。よく神社仏閣で○○参りとか、○○祈願などといって、いわゆるお賽銭をあげて祈る姿をよく見かけます。 またそういうところで売られている御札や御守りなどを見ると、病気平癒(びょうきへいゆ),良縁成婚、商売繁盛など多種多様であり、そこに願う人の願望をみることができます。 そして、ひたすら人は願うのです。この行為自体は悪いことでもなんでもありません。しかし、それに恵まれるかというと、神社にお参りにいって癌が治ったとか、 結婚できなかった人が良縁に恵まれたという話はあまり聞いたことがありません。
この世界の出来事はそのすべてが偶然ではなく必然です。原因のない結果 はなく、結果には必ずそうなった原因が存在します。 原因結果という因果 律に支配されています。重要なのはその原因を突き止め、解明しその原因に直接働きかける事であります。 いくら結果 を何とかしようとしても、原因が存在する以上結果は変らないということになります。 ちょうど雑草の葉っぱだけを摘んでいるようなもので、根がある以上、一時はいいように見えてもまた葉が出てくるのです。 運命学を駆使し、その原因を的確に把握し、そして心霊霊能祈願により納消する。これが心霊霊能祈願のふたつめの意味であります。 このふたつの働きかけにより祈願する者は現状の苦悩から脱し、新しい運命のもとで生きていく事ができるようになるのです。