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供養祈願

祈祷の様子
祈願とは何でしょうか?
祈願とは読んで字のごとく「神仏に祈る」ということです。では、「祈る」とはどういうことなのでしょうか。

 

「いのり」の「い」には「斎」、神聖の意があるといいます。「斎」は精進潔斎(しょうじんけっさい)の「斎」でもあります。 「のり」は告る(のる)、宣るの意があるといいます。神や天皇が神意、聖意を表明するという意もあります。 つまり、「祈る」とは、神仏や神聖なものに向かい、心身を清浄に保ち、自分の何かを賭し(とし)、 罪を懺悔(つみをさんげ)してはっきりと表明することであります。これが「祈る」です。

 

では、「願う」とは何か。願望を願う事であり、特に神仏に望みごとを祈る事だといいます。 つまり、「祈願」、祈り願う事とは、神仏に自分の望みや希望を自分の心身を清浄にして、また何かを賭してはっきりと表明することということになるのです。 そこには、人間の持つ不浄をすべて清め、罪を懺悔し、自分のすべてを預けて、はっきりと宣告する事が必要であります。

 

祈祷の様子
よく「願をかける」ということを耳にします。この場合かける、すなわち「賭ける(かける)」ということであるから 何かのエネルギーをその対象に対して自分の方から出す事をいいます。われわれが大事なことを行うときに「命をかける」とか、 「身を賭して」などといいますが、神聖なこの気持ちが本来の意味での「祈願」に必要なものです。 逆にいえば、神仏に祈願し、ただ単に求めること自体、本来の祈願の理にそわないこととなり、 何も得られないばかりか、くたびれもうけでおわるのです。

 

「大欲は無欲に似たり」という言葉があります。「求める」心の根源には必ず「欲」が存在します。 大きな欲があればあるほど、結果 として何も得られず無欲の状態と同じだということをいっているのです。 「得られる」ことと、「恵まれること」は一見すると同じようなことに感じますが、別 の意味においては天と地の開きがあります。

天国の食堂と地獄の食堂という話があります。ある欲張りな男が天国と地獄を見に出かけました。 はじめに地獄を訪れました。見ると、たくさんの亡者が地獄の中でうごめいていて、聞きしに勝る阿鼻叫喚(あびきょうかん)の世界でした。 ふとみると、地獄の食堂が目に入りました。中に入ってよく見ると長方形の大きなテーブルの上には信じられないようなごちそうが山のようにあるではありませんか。 男が「地獄でもあんなごちそうが食べられるようになるならそう悪くないな」と驚いていると、たまたま食事の時間で、ぞろぞろと亡者たちが食堂の中に入ってきました。 しかし、みんなガリガリに痩せ細って、眼はうつろでどうみても喜んでいるようには見えませんでした。 男が不思議に思っていると、そばにいる鬼が2メートルはあろうかと思うような長い鉄の箸を大きな七輪のような物の上において、 下から火をつけていました。長い鉄の箸は見るまに、中ほどのところが真っ赤に焼けてきました。亡者たちはその箸を渡されると、 やっと持つことのできる端のほうを手で持って、テーブルのごちそうを食べようとしました。 しかしそんな長い箸では食べ物はつかんでも口に運ぶことはできません。また、中ほどは熱くて持つこともできないのでしかたなく、 箸でつまんで上に放り投げたりして落ちてくるごちそうを食べているのでした。しかし、そんなことでは口に入るのはほんのわずかで、 亡者たちはほとんど何も食べる事ができずにまた鬼たちに追いやられて食堂を出て行きました。 その光景を見た男は、目の前にたくさんのごちそうがあるのにそれを食べる事もできない。地獄とは本当に恐ろしいところだと震え上がりました。

 

祈祷の様子
次に天国を見に行きました。天国に着くと想像していたとおりの素晴らしいところで、 そこにいる人間もみんな幸せそうでした。どこも春の花園のようで、やっぱり天国は素晴らしいところだと思いました。 ふと見ると天国にも食堂があり、中に入ってみると地獄の食堂のような大きな長方形のテーブルに、たくさんのおいしそうなごちそうが並んでいた。 それはいままで見たことがないような贅沢なごちそうでした。しかし、男は次の瞬間腰を抜かさんばかりに驚いてしまいました。 なぜなら、天国の食堂にも地獄の食堂にあったような長い箸があったからです。 それも、地獄のときと同じように真中が熱く焼けており、中ほどを手でつかむことはできないようになっていました。 おりしも天国も食事の時間になり、天国の住人たちが食事に集まりだしました。 男はその住人たちがどうして食事をするのか不思議でしょうがなくて、その様子を注意深く見守っていました。 すると、その住人たちは大きなテーブルに向かい合わせに座り、その長い箸でごちそうを掴むと、それを向かい側の人の口に入れてあげているではありませんか。 住人たちはそうやって交互にごちそうを食べ終わるとニコニコ笑いながら食堂を出ていきました。 男は深く感心して、「天国と地獄の違いはこういうことだったのか」と自分の欲張りを深く恥じました。

 

これが天国の食堂と地獄の食堂の話です。「得られる」とは、その前提として、「求める」ことがあり、 そのもとはあくまで自分の「欲心」です。「恵まれる」ことはその前提として自己から他へ「恵んだ」かということであり、また恵まれる資格があるかどうかということです。 他が評価することで成り立っている世界であるのです。よく神社仏閣で○○参りとか、○○祈願などといって、いわゆるお賽銭をあげて祈る姿をよく見かけます。 またそういうところで売られている御札や御守りなどを見ると、病気平癒(びょうきへいゆ),良縁成婚、商売繁盛など多種多様であり、そこに願う人の願望をみることができます。 そして、ひたすら人は願うのです。この行為自体は悪いことでもなんでもありません。しかし、それに恵まれるかというと、神社にお参りにいって癌が治ったとか、 結婚できなかった人が良縁に恵まれたという話はあまり聞いたことがありません。

 

祈祷の様子
「一粒万倍(いちりゅうまんばい)」という言葉があります。大地に蒔かれた一粒の種は大自然の摂理により特別 何をしなくても万倍に増えることをいいます。 蒔いた種は生える、蒔かぬ 種は生えぬ、といいます。結果の大小はその始めに蒔かれた一粒の種にどれだけのエネルギーを注ぐことができたかによって決まるのです。 これが恵まれるということであります。「欲する者」はすべて自分中心であり、すべて他人から自分への一方通 行です。だから、自分自身が満足を得られない限りいつまでも求めなければなりません。 求め続けることによって、その「欲心」は無限になり、際限のない執着が起こるのであります。 それは、自然の世界からいえば、種を蒔かないで収穫を期待するようなもので、まさに「蒔かぬ 種は生えぬ」ということになります。 心霊霊能祈願の祈願には二つの側面が存在します。ひとつは願望成就のための祈願の側面と、もうひとつは人間の持つ運命的原因納消のための修法的側面です。 願望成就の祈願的側面とはまず、自分自身が「恵まれる」ための器をつくることであり、その最初の種を蒔くのにどれだけのエネルギーを使ったかにほかなりません。 願望は自分の願望であり、その結果に恵まれるのも自分です。「打てば響く」というように鐘を打てば、打ったその人の力に応じた音が響く。 弱く打てば弱く小さな音が、力いっぱい打てば力いっぱいの音が自分に帰ってくる。 このように祈願する本人の心が問題であり、本人の祈願力が引き金となってまわりの力がそれに反応して祈願を成就するのであります。 これが心霊祈願の祈願ということであり、神仏との取引でも、願望成就のためのシステムでもないのです。 そして、その願望が自分の目に見える形となって現れたとき、すなわちそれが神仏の利益であり、神仏の加護であり、神仏そのものの姿であります。 心霊霊能祈願のもうひとつの側面とは、因果律の上に成立している運命的原因納消の修法ということであります。

 

この世界の出来事はそのすべてが偶然ではなく必然です。原因のない結果 はなく、結果には必ずそうなった原因が存在します。 原因結果という因果 律に支配されています。重要なのはその原因を突き止め、解明しその原因に直接働きかける事であります。 いくら結果 を何とかしようとしても、原因が存在する以上結果は変らないということになります。 ちょうど雑草の葉っぱだけを摘んでいるようなもので、根がある以上、一時はいいように見えてもまた葉が出てくるのです。 運命学を駆使し、その原因を的確に把握し、そして心霊霊能祈願により納消する。これが心霊霊能祈願のふたつめの意味であります。 このふたつの働きかけにより祈願する者は現状の苦悩から脱し、新しい運命のもとで生きていく事ができるようになるのです。